ごとう姫だるま工房

姫だるまのご購入について

story ごとう姫だるま工房と「姫だるま」誕生の話

はじまり 初代 後藤 恒人(1900-1972)

資料提供:ごとう姫だるま工房

昭和27 年(1952)、戦後の日本。

ある日、一枚の皿に描かれていただるまの絵を見た初代はその昔、縁起物の女だるま「起き上がり」が城下町にあったことを思い出します。倒れても倒れても何度も起き上がるこのだるまの姿こそ、戦後復興の人々の心に必要ではないか…。

ならば、地域の皆さんが元気になってくれればと「起き上がり」の再興を決意します。後藤恒人52 才のことでした。しかし、すでに製作者は途絶えており初代の苦労は生半可なものではありませんでした。たまたま城下町旧家に残っていた古いだるまを参考に、誰に習うわけでもなく、苦心惨憺の末、自ら製法を編み出します。

 

努力が実を結んだのは翌年正月。昭和31年には「姫だるま」と命名して以来17年間、病に倒れるまでただひたすらに人々の幸せを願い、姫だるま製作に残りの人生を捧げました。

お嫁さんに受け継がれた伝統技術

photo Ⓒ takashi kubo

写真左:「胡粉塗り」

七輪の湯煎でゆっくり溶いた膠に胡粉をまぜ、何度か塗り重ねる。

季節や天候にあわせた仕上がり加減は長年の感覚だけが知っている。

 

写真中:顔の墨入れや背中の如意宝珠は二代目の明子さん(奥)が担当し、体の胡粉塗りや朱塗り他松竹梅などの絵柄は三代目の久美子さんが担当する。

 

写真右:次の工程までゆっくりと出番を待つ姫だるまたち。

初代から学んだ製法は、木型作りから下張り、起き上がり細工、絵付けに至るまで実に16もの工程を経ます。

特に、姫だるまの命である白肌は胡粉でしか絶対に出せない柔らかな光。泥絵の具をはじめ、江戸時代から変わらぬ材料を使い、季節やその日の天候にあわせ、乾き具合も塗り加減も自然とともにゆっくり焦らず待ちます。

そうして1週間後ようやく1体の姫だるまが生まれます。(市指定無形民俗文化財)

「泥絵の具」

初代から使用している泥絵の具は、顔料に胡粉を混ぜゼラチンを加えたもの。泥絵は浮世絵でも知られるが、その色は数十年と褪せない。

心を受け継ぐ守り人~作り手からのメッセージ

二代目 後藤 明子(めいこ. 写真右)

昭和31 年に19 歳で嫁いで以来、姫だるま作り一筋です。

先代が病に倒れてから周囲には女性には無理と言われましたが、苦労して貫き通した先代の想いと偉業を絶やしてはいけない。やる気があればきっとできる!と、ただ無心で続けてきました。姫だるまの口を描き終わった時にいつも、届いた先の方が笑顔で幸せになってほしいと願います。これまで地域の方や家族に支えられ、何よりも〝姫だるまにいつも守ってもらっている〟と感謝しかありません。

後継者 久美子(くみこ. 写真左)

昭和57 年に嫁ぎ、翌年から子育ての合間に仕事を手伝うようになりました。何もわからなかった私に「私ができるのだからあなたもできる」といつも励ましプラス思考に変えてくれた母に感謝しています。先代が亡くなってから一人で製作をしてきた母を心から尊敬しています。姫だるまが結ぶ、多くの方々とのご縁に感謝。今日のこの日が、一日も長く続くことを願っています。

未来の繋ぎ手 宗子(そうこ. 写真中央)

どんな時も、いつも前向きで明るい祖母と母の工房で生まれる姫だるまだからこそ、良きご縁や幸せを運んでくれていると感じています。 女性の手から生まれる幸せの姫だるまを、これからも大切に未来へ繫いでいきたいです。

もうひとつの物語~岡藩時代の女だるま

初代が復興させた女だるまはその昔「起き上がり」と呼ばれておりました。遡ること旧岡藩時代に城下町で見られるようになり、当時は下級武士の内職として作られていたという説があります。その背景には、これまで語り継がれてきた家運隆盛の象徴となった下級武士の妻、綾女の物語がありました。慎ましい日々の暮らしの中で七転び八起きしながらも、綾女(あやじょ)を通じて取り戻された家族の絆と大きな愛と豊かさは、だるまに描かれた松竹梅と太陽を意味する頭部のひし形、そして背中に印された願いを叶える宝珠に込められました。一体の中に表現されたデザインは、どれ一つとして欠かせない絶妙なバランス。素朴でいながら人を笑顔にするその姿はおよそ三百七十年以上経った今も美しく、優しく、私達の心を癒してくれます。

Copyright (c) goron llc.